日语诵读文选第23课
福永武彥(1918—1978)
私は物を始める前の、あるいは物の始まる前の、ぴんと張りつめた気持ちが好きである。物を始めると言ったが、それはなんでもいい。例えば私はこのごろ、なんということもなくの毛筆で字が書きたくなる。そこで砚に向かって墨をする。墨のにおいがしだいに立ちこめてくると、それだけでなんとも言えぬや心の安らぎと、同時に精神の緊張を感じる。いざ②墨がすり上がって手習いを始めれば、思っていた半分もうまくいかない®から、だんだんに嫌になるが、これは直前に私の持っていた精神の集注がそのまま持続しなかったことの証拠であろう。
下手ついでに、私は暇を見つけて水彩、油絵などを試みることもあるが、そういう時も、画用紙、カンバスを前にして、絵の具がようしぶでほさきをチューブから出したり、筆の穗先を試したりしている時が、無性に楽しい。こういう気持ちは上手下手とは関係がないだろうと思う。私は茶や花にはまったく暗い®が、これから茶を喫する前の一瞬、これから花を活けようとして花瓶に相対する一瞬は、おそらくそのあとの行為に匹敵するだけの緊張を必要としているのだろう。物を始める前の短い時間には、推量すれば、昔の武士が真創勝負でかつしょうぶやあとばかり相手に切りつける前のエネルギーと同じものが含まれているかも知れない。その沈默の中に、この勝負の成功不成功がかかっていて、ひとつ間違えば反対に切られてこの世とお別れになるだろうし、私の場合には、そこに精神の集注がないかぎり®ろくな字も書けずまたろくな絵も描けないのである。
物が始まる場合にも同じことが言えそうである。例えば、私は芝居の幕の上がる前のざわざわした空気とか、ベルが鳴り終わって、映画館の中がすうっと暗くなる瞬間が好きだ。といっても、私は芝居や映画に大して出かけるわけではないの。なにろ期待したほどに実物がおもしろいことはまれだし、始まる前の雰囲気を愛するためだけにの、入場料を払うのはばかげている。この心理は、せっかく見に来た以上"これから見せられるものはきっとおもしろいはずだという、一種の自己暗示のせ方因)ぽいである。その点、音楽会にまさるものはない。特にオーケストラの楽士たちがそれぞれもったいぶって"楽器の調子を確かめているのを、見たり聞いたりしていると、私はきっとわくわく游动にしてくる。肝心のそのあとの演奏よりもそのほうが気に入るくらいである。私はレコードをかけてひとりで聴くのも好きだ重要が、レコードの場合にいちばん物足りないのは、演奏直前のこの雰囲気が欠けていることである。もっともこれは私の勝手な言い分で、せっかくの名曲の前にバイオリンがきいきいきしんだのでは、そんなレコードは売れはしないだろう。
物の始まる前の「物」とは、要するに向こうから与えられる。生发のであり、こちら側に期待を生じさせるその効能が大きければ大きいほど®、私たちは自己暗示、もしくは自己催眠にかかりやすい。これは程度を越すと期待不安症となり、いざ始まるまではどうにも落ち着かないという病的な症状を引き起こす恐れもにれある。高いお金を出して音楽会の前売切符を買っておくと、当日の夕方におなかが痛くなるというたぐいである。ぜひ見よ)と思うテレビの番組の時間になると、たまたまお客が来るという不運もある。「物」とはままならぬ"ものである。お巧これに反して、物を始めると言う時の「物」は、私ひとりにかかわるので、相手とはまるで関係がない。おなかが痛くなったり客が来たりすれば、ただ延期すれば足りる"。私は字を書いたり絵を描いたりするような、ごく趣味的なことばかり言ったが、すべて仕事を始める前の心の緊張は、楽しいものだしまた当然楽しくあってしかるべきである。なぜならそこにはこれからす(2る行為へのエネルギーが一種の潜在的な状態として蓄積されているはずなのだから。といっても、仕事というのは実はらいもので、趣味とは異なるから、私なんか"も小説を書こうと思って原稿用紙を広げたまま、いつまでも「始める前」の楽しさばかり味わっていることが多い。度を越すと、その楽しさが一週間も十日も続く。したがって「物」を始める前の気持ちというのは、ごく短い時間に限るので、短ければ短いほど値打ちがあるとも言えそうである。
「遠くのこだま」による
【作者介绍】
福永武彦(1918年﹣1978年),诗人、小说家。出生在日本福冈县,毕业于东京大学法文系。主要著作有「福永武彦詩集」;小说「風土」、「草の花」、「海市」、「死の島」;评论传记「ゴーギャンの世界」等。
【参考译文】
开始之前
我喜欢开始做事情之前或事情开始之前突然产生的那种紧张的兴奋感。说是开始做事情,其实无论做什么事都行。例如,最近我比较空闲,便想练练毛笔字,于是在砚中磨墨。当逐渐闻到墨香时,我心中升腾起一种莫明的舒畅、同时也有些精神紧张。磨好墨便开始习字,如未能达到预期的一半效果时,就会渐渐地厌倦起来。这证明了刚开始时我所持有的全神贯注未能一直保持下去。
尽管水平不高,得便我也挤时间试着画画水彩画、油画之类的。每当打开绘画纸或画布,从颜料管中挤出颜料,再舔添笔尖时,也会有种不可名状的快乐。我认为这种心情与绘画的好坏没有关系。虽然对于茶道和花道我是一窍不通,但是也许喝茶前的催促、劝诱别人或自己决心作某种动作时用。那一刻或插花时与花瓶相视的那一瞬间,需要一种竭力与以后的行为较量的紧张感吧。在开始做事前的短暂时间内也许蕴藏着一种能量,这与古代武士真刀真枪决一胜负时,"杀啊!"猛然砍向对方时的能量是相同的。这种拼杀前的沉默,关系到本次决斗的成功与否,稍有差错就会被对方击败,从而告别这个世界。我这个人除非是全神贯注,否则就字也写不好,画也画不好。
也许可以说,与事情开始的情况是相同的。例如,虽然我喜欢戏未开演前的嘈杂气氛以及电影院里铃声刚停时忽地暗下来的那一瞬间,但并不是说我喜欢去看戏剧或电影。总之,许多事物的结果都不像企盼时那么富有魅力,况且只是为了喜欢开幕前的气氛而去购票,倒显得有些愚蠢。"既然是特意来看的,开场后一定会有趣的。"这种想法是自我暗示心理造成的。在这一点上,是无法超越音乐会的,尤其是当看到和听到乐队的乐士们各自摆弄乐器、调整音调时,我必定会激动起来,比起后面的主要演奏来,我更在意前者。我喜欢一个人放唱片听,但是,唱片的不足之处是缺少演奏前的气氛。不过,这只是我随便说说而已,如在一张难得的名曲前灌入小提琴"吱吱嘎嘎"的调音声的话,那么,这种唱片自然是卖不掉的。
所谓开始前的"事情",总而言之,是由对方提供的。让人产生"期待"的那种作用越大,我们就越容易产生自我暗示或者自我陶醉。如过度的话,便会转为企盼焦虑症,有可能会处于一种"开始之前"心神不宁的病态症状。花高价买了音乐会的预售票,当天傍晚必定会出现肚子疼之类的情况。我就是属于这种类型的人。这就好比,好不容易等来了想看的电视节目,恰巧来了客人,真不走运。所谓"事"是不遂人意的。
与此相反,开始做事的所谓"事情"是与我个人有关的,与对方完全没有关系。如肚子痛或来客人的话,只须延期即可。我一直在说些写字、画画之类饶有趣味的事例,不过,所有开始做事前的心理紧张都是愉快的付出,当然应该愉快地去面对。为什么这么说呢,因为其中有马上要付诸行动的能量,正处于一种潜伏状态而积蓄着。话虽这么说,但实际上工作是很辛苦的,所以与兴趣有所不同,像我这种人想写小说时,往往铺开稿纸便一直能品味到"开始之前"的乐趣。有时,那种乐趣竟能持续一周或十天。因此,所谓开始做"事情"前的心情,只限于极短的时间,也可以说越短越有价值。